2019年5月16日 (木)

ドレッサージュ決勝でジャンプ・オフ?

 FEIというところは、どうも素っ頓狂なアイデアを思いつく団体だと見える。

 ドレッサージュ競技でのトップ8に、それぞれの乗り馬を交換させて、それで決勝戦をやろうというもの。

 乗り馬の交換というのは、現在の大きな世界的大会ではどうか知らないが、ずっと以前にはショージャンプの競技では存在していた。ユーチューブの動画で、ニック・スケルトンがソウル五輪の覇者ピエール・デュランの乗り馬・ジャプルー号、―名代の癖馬で、映画にもなったそうな―に跨がり、そしてデュラン選手はまた別の選手の馬で、というふうに互いの馬を乗り換えて、競技を行うのを見たことがある。もっとも、正規の競技なのか、ショーみたいなものだったのかは、未確認だけど。それにしても、これほどのハイクラスのライダーであり馬であるのだから、決してジョークみたいな催しでなかったのは確かだろう。

 ところで、上のリオやソウルの金メダリストたちをもってしても、違う馬に乗ってのジャンプは大いに勝手が狂うのを私は見た。馬にしても、もちろんジャプルーをはじめ当時の世界的一流馬ぞろいなのだけど、それでもライダーが変わると飛越を拒否したり、障害を落としたりという場面が頻発していた。ジャンプとドレッサージュと、どちらのほうがライダーと馬とのコミュニケーションがむずかしいのか、あるいは複雑なのかはわからないけれど、乗り馬が変わるとライダーの勝手が狂うというのは同じことだろうと思う。

 ドレッサージュの馬は、基本的に商品である。だから、誰のものになっても同じ動きができるよう、たとえば脚で馬のこの部分を刺激すれば常歩を、別の部分を刺激すればキャンターをといったふうに、いわゆる一定の「扶助」に的確に反応するよう入念に調教されている由。だから、ライダーたちがその場で互いに乗馬を取り替えっこしても、何の不都合もないはず、と一応は思われる。が、馬も生き物なのだから、当然、いくらかの当惑は最初はあるだろうし、ライダーにしても勝手の違いを感じるに違いないのは上に述べたとおり。決勝では、そこにライダーの技量を見て、順序をつけようという狙いなのだろう。その狙い自体は悪くないし、むしろ面白いとさえ思うのだけど、さて、これが、実現可能かどうか。

 ガルやハンスピーター、またワースのような百戦錬磨のプロフェッショナル・ライダーなら、急に他人の馬に乗ることになっても、それほど戸惑わないと思う。競技経験はもとより、新しい馬に自らトレーニングをつけた経験が十分にあるだろうから、馬の急な変化への対処法をちゃんと心得ているだろう。問題は、資金の豊富さにまかせてメダリストの馬たちを買いあさり、それでもって五輪出場を狙うようなアマチュア・ライダーたちである。こんなライダーたちは、おそらく自分の乗り馬以外の馬には、ほとんど乗った経験がないだろうし、また、トレーナーによって徹底的に調教された馬にしか乗った経験がないだろう。だから、馬が突然予想外の動きをした時など、動揺して、すみやかに対処できないだろう。そのようなライダーの恐る恐るの騎乗と、ベテランの自信たっぷりの騎乗とに、素人でもハッキリわかる違いがあるのは、想像にかたくない。いや、ベテランが代わって乗った演技のほうが、もともとのライダーのより、はるかにめざましい場合だって大いに考えられる。その屈辱に、金持ちアマ・ライダーがはたして耐えられるものだろうか。しかし、FEIやドレッサージュ界の最大のお得意さまは、まさしくそのお金持ちライダー。

 であるからして、この、騎乗馬取替えっこプランは、あるがままに施行されればなかなかの見ものになると思うけど、五輪選抜のような競技会では絶対施行されないだろうし、施行されるとすれば、そのときの出場者をよくよく吟味して、どう転んでもドングリの背比べになるような場合にのみ、施行されることと思う。

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2019年5月 7日 (火)

品種改良と動物愛護について

 最近、家畜のイラスト、―牛とかヒツジとか―が描きたくなって、いろいろひと通り描いてみたのだけれど、その際、1種類でなくいろいろな種類のを描かないとバリエーション豊かになるまいと思い、ネットで調べては牛なら牛、ヒツジならヒツジを10数種類ずつ描いてみた。

 それで驚いたのだけれど、同じ牛、同じヒツジでも、まあ何とたくさんの種類があることだろう。牛はそもそも、コブ牛と牛とが学名も別の生き物だし、水牛にいたっては全然別物だという(雑種もできないそうな)。ヒツジときてはさらに、ウール用、肉用、乳用と三種にわかれていて、またウール用にしても、毛の太さだとか粗さだとかによって、どんな生地のためのヒツジかとかだいたい決まっているらしい。―もちろん、実際にはもっと融通をきかすのだろうし、先の用途にしても、たとえばウール兼肉のような場合も多いのだろうけど。

 それで思ったのだけど、これらの種類は、言うまでもなく人間によって作り出されたものだろう。少なくとも、いろんな地域に野生でいたものを家畜化し、選別し、それぞれの用途に合わせて育成してきたものだろう。これらの牛やヒツジは、今では人間の世話なしでは生きていられないだろう。また、もっといい品種が作り出されでもすれば、使われなくなり、育てられなくなって、絶滅しさえするものでもあろう、―事実、ネットの情報によれば、家畜でありながら”絶滅危惧種”であるものも少なくないとある。

 すでに食用の牛、ウール用のヒツジがいるというのに、「もっとうまい肉」「もっと柔らかい毛」のためにさらに新しい品種を作り出し、過去になった品種は廃れるにまかせてほっておく、というのも、思えばこれらの動物に対してずいぶん失礼であり、残酷なことである。また、少しでも発育にかかる費用を節約するため、非常に生育の速いニワトリの品種を作ったはいいが、そのためにこのニワトリは心臓や脚に異常な負担がかかり、―つまり肉体の発育のスピードに内臓や骨格のそれが追いつかないのだ―たとえそのまま飼い続けたにしても短命に終わらざるを得ない、という。また、養殖シチメンチョウの一種にいたっては、同じ理由で自分ではほとんど歩くこともできず、交尾すら自力ではできない(だから人工繁殖せざるを得ない)というから恐れ入る。子孫を残せない=生物の種として失格になるのなら、このシチメンチョウは、すでに「終わっている」種であると言わざるを得まい。

 また、馬などにも、同じようなことが言えると思う。競馬がなければサラブレッドは存在できないし、馬術がなければほとんどの温血種は無用となる。事実、自動車ができてから馬車用の馬(と軍馬)は激減したし、耕運機ができてから農耕馬は食肉用としてほそぼそ命脈をとどめるのみになった。

 ところで、急進的なビーガンや動物愛護家が、捕鯨船を追い回したり、養豚場に乱入したり、ロデオ会場を取り囲んだりといったことがよくあるけれど、彼らはこれをどう思っているのだろう。人間が馬を車に乗り換えたとき、非常に多くの馬が行き場を失い、処分されたことと思う。また、耕運機が普及したために、今まで鋤を引いていた馬や牛が行き場を失い、やはり大量に処分されたであろう。「そういう労働から解放された今の牛や馬は幸せだ」という考え方もあるだろうけど、結局、それは”使わなくなったものは捨てる””古いものからよりよい物へ”という信仰へのイイワケ、忌憚なくいえば良心へのゴマカシではないだろうか。

 進歩をあがめ、文化水準の高さを誇り、便利な上にも便利にと人間が勢いこめばこむほど、まだ使えるのにそのまま捨て去られていくものもまた、どんどんと増えていく。それは機械に限らない、―動物もまた、同じことである。船やら自動車やらがなければ、動物愛護家は北極の海や南アメリカの高地くんだりまで活動に出かけることなどできなかったろうし、ビーガンだって外国の果物や野菜やを自由に選んで食することなどできなかったろう。また、耕運機がなかったら、野菜や果物の価格は今よりはるかに高くなっていたのではないか。要するに、彼らは分明の発達のおかげで、彼らの欲する行動を心おきなくできるようになった。しかし、その影で、何百頭もの馬車馬や耕作牛が機械に取って変わられ、一方的に見捨てられ、食や住はおろか、種の存続さえできなくされた。また、動物愛護家らは、馬術やロデオが残酷だと非難する、しかしいったん馬術やロデオが廃れれば、人間には別の趣味があっても、馬術馬やロデオ馬には、種としての行き所はない、―それは、人間に、その用途のために人為的に作られた品種だからだ。

 進歩はいいことではあるけれど、単に進歩できるという理由だけで進歩するべきではないと思う。また、たとえ意味のある進歩だとしても、数多くの犠牲を伴う進歩もまた、考えものだと思う、―ましてや、その意味が、従来のものに比べてちょっと美味だとか、やや節約になるとかいう程度なら。「それは我々の関心とは全然関係のない話だ、我々に関心があるのは不幸な動物のことだけだ」と愛護活動家は言うだろうけど、結局のところ、「少しでもよりよい生活を」「少しでも進歩を」と信じて疑わない人間は、そのためにはやらでもの犠牲さえ辞さないところがある、―それがとどのつまり、動物を、不幸はおろか抹殺さえする結果を招来しかねないのは、過去から見ても、確かだと思われるのである。

 

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2019年4月13日 (土)

Bay Ronald号について

 先日、WFFS遺伝子のオリジンと特定されたサラブレッドのベイロナルド号Bay Ronaldについて、ネットでちょっぴり調べてみました。

 ベイロナルド号は、そもそもネット検索でスラッと出てくるくらいだから、サラブレッド―競走馬―の世界ではなかなか有名な存在。ただし、スポーツ方面でなく、繁殖の方面で。産駒も同様に、スタリオンとして素晴らしい結果を出しているもの多数で、中には同時に競走馬としても見事な成績を収めているものもある。だから、ベイロナルドの系統は、英・欧の競馬界で一時期は相当な繁栄を誇ったのだけれど、ひとつには世界大戦の勃発で、またひとつにはレース距離の短縮化で(この系統には長距離を得意とするものが多かった)現在はひどく衰退している由。なお、この系統のもっとも著名な代表馬は、ベイロナルドの曾孫に当たる、歴史的種牡馬といわれるハイペリオンHyperion号。

・ベイロナルド 英国産 1893~1907 1899~英で種牡馬入り 1905~フランスで種牡馬入り

 ベイロナルド自身はドイツには渡らなかったけれど、産駒のダークロナルド号Dark Ronaldが引退後ドイツに購入されて、種牡馬として大成功。

・ダークロナルド 愛国産 1905~1928  1910~英で種牡馬入り 1913~独で種牡馬入り

 ドイツのハノーヴァー種、オルデンブルグ種、そしてホルスタイン種の血統にサラブレッドのダークロナルドの血が入ることになったのは、これがきっかけだったわけ。ダークロナルドのみならず、そのドイツ生まれの産駒(サラブレッド)たち、たとえば、Herold,Prunus,そしてそのまた産駒であるAlchimist, Oleanderなども、―彼らは独ダービーやバーデン大賞などを勝ったドイツきっての名馬らだけど―、ハノーヴァーの血統表にその名が散見される。
 ホルスタインの血統表、―わけてもCor de la Bryere系に見られるのは同じダークロナルド産駒でもSon-in-Lawだけど、このサンインローはずっと英国で供用(1916~)されていて、ドイツにやってきたことはないはず。たぶん、ダークロナルド産駒の成功ぶりに目を見張ったドイツの生産者が、それならサンインローもと、その産駒を導入したのでは(サンインローはかくべつスタミナに優れた馬だった由で、その血統がジャンプ界で大成功したのは決して偶然じゃなかろう。なお、コルドラブレヤは曽祖父フリオーソもダークロナルド系だけど、父もバリバリのダークロナルド系。二重にその血をひいてるわけ)。

 そうそう、実は、トラケナー種にもこのダークロナルドの血が入っているものが見られる。トラケナー種は、原則トラケナー同士との交配だけなのだけれど、その改良にサラブレッドが用いられた歴史がある由で、そうなると、地元ドイツの最優秀なサラブレッドが使用されたのは当然。

 というか、ハノーヴァーやトラケナーのみならず、あらゆるドイツの中間種の改良において、もしサラブレッドの血の導入が必要とされれば、まず地元の最優秀なサラブレッドが使われるのは当たり前すぎる話というもので、そのサラブレッドの血統が、ドイツでもっとも成功しているダークロナルド系であるというのもまったく当然のことだろう。そのダークロナルドが、そもそものWFFS遺伝子の持ち主だったというのはいかにも不運なことだったろうけど、現在のハノーヴァーやオルデンブルグやホルスタインにおけるWFFSの蔓延ぶりは、ダークロナルドの責任というより、その血統を繰り返し繰り返し、重ね重ね、ゲップが出るほど使いまわしてきた生産者の配合方針によるんじゃないかな・・・

 なお、ハノーヴァーの血統表で見られるダークロナルド系のサイヤーには他に、

・World Cup 1
・Blacksky(サラブレッド)
・Cottage Son(サラブレッド)

などがある。トラケナーでは、

・Doruto(母父サラブレッド←ダークロナルド系)・・・オランダ温血種・ヘルデルラント種におけるWFFSのオリジン臭いEl Corona号の母父。エルコロナは、父のAmorが怪しいとばかり思っていたが、どうもこっちか?
・Consul(父サラブレッド←ダークロナルド系)・・・WFFSキャリア2頭の母父(Don Vino号)
・Caprimond(祖父母サラブレッド←ダークロナルド系)・・・WFFSキャリア1頭の母父(Botticelli号)

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2019年4月 4日 (木)

長生きしたラバ&Rollkurについて

 なんと50歳以上を生きたラバ(馬とロバの雑種)。

 

 こんなに長生きすることもあるんですね、ラバって。ご冥福をお祈りします。

 で、同日にユーロドレッサージュの記事に「フランスが馬のアゴヒゲ・耳毛のカットを禁止」というのが出ていた。これは、通常馬の口付近や目の上、耳の中に生えている毛を、美観上の意識から、剃り落としたり刈りこんだりすることに罰則を設けるという法律?で、ドイツではすでに施行されているもの(アメリカじゃまだの由)。馬だってダテにそんなものを顔面に生やしているわけでなく、ヒゲでさわることで周辺のものを探っていることは容易に推測されるから、これはまあ当然の措置といっていいでしょう―というか、あれほど動物の愛護に熱心でありその生態にも詳しいヨーロッパの人々のなかに、綺麗に見えるからというだけで自分の乗る馬にヒゲ剃りを敢行する者(それも、一応ドレッサージュ・ライダー)がいるということが、驚きといえば驚きだけど・・・

 それより目を引いたのが、それに対するコメントのうちのひとつ。それは、「ヒゲ剃りもだけど、それ以上にRollkurを放置しておくのがずっと問題だ」というもの。このRollkurというのはHyperflexionともいって、馬の首を極端に弓なりに―馬の鼻先がその胸にふれるくらい―曲げさせること。風説では、オランダのA・グルンズヴェンが始めたとも言われている。

 このRollkurは、競馬では”ツル首”と呼ばれてるものに近いけれど、非常に勇ましく、闘志満々に見えて、見栄えとしては素晴らしいもの。が、10年前、競技前のウォーミングアップでP・キッテルがこのツル首でトレーニングしていたとき、乗り馬のスキャンディック号が口から血の気の失せた舌を垂らしていた動画がネットに投稿され、大いに拡散し、非常な物議を醸し、それ以来ドレッサージュ界ではことあるごとにこのRollkurがヤリ玉に挙げられるようになっている。

 私は馬の舌や呼吸器や血管に対する知識は全然ないから、こういう現象が容易に起こるものか、そしてそれを馬が苦痛に感じているのかはよくわからない、以前、日本の獣医師がこの動画―blue tonge horseで検索できる―を見て、ハミのきつさや舌の位置などいろいろな条件が複合して舌のチアノーゼに到ったのだろうと推測している記事を読んだことがあるけれど。いかにも、青褪めた舌というのは不健康に違いなく、そんなことに至らないのがいいには決まっているけれど、その原因がすべてRollkurにあるとか、Rollkurをすれば馬はみんなああなるとかの考えは、相当疑問だと思う。先に述べたように、ツル首は競走馬でもよく見られるが、その場合馬は騎手にその姿勢を強制されているわけではない―闘志が全面に出過ぎ、走る気になり過ぎているのを、騎手が抑えているから結果的にあんな格好になるので、騎手としてはむしろ御しにくくて困るのである。思うに、気合いが乗って逸り気になっている馬、エキサイトしている馬は、人に強いられなくても自らあのような、ツル首のポーズを取りがちなのだ。それが苦しげに見えるからといって、ほんとに馬が苦しんでいるかはわからないし、また、あのような一種見栄を張ったポーズは、多少の苦しさは忍んでも、興奮した動物は―人間も含め―堂々と―とりわけライヴァルや恋人の前では―取って見せるものでもある。ほんとに馬が苦痛で嫌悪感をおぼえているのなら、騎乗者に逆らって暴れたり、強引に首を伸ばしたりするでもあろう。Rollkurの姿勢をとらせることが馬への虐待だとか、そんなことをさせるライダーは残酷だとかは、一概には言えまい。Rollkurの姿勢うんぬんより、むしろライダーが馬のコンディションに配慮せず、しつこく、厳しく、漫然とそれを行うほうに問題があるように思う。いわば、Rollkurは体操の大技みたいなものであって、ここぞという時に発揮するべきものであり、それを成功させるためには日々の練習も必要だが、しかし練習で大技ばかりやってケガをしては何にもならない、―筋力、柔軟さ、スタミナなどを十分に養った上で、もっとも効果的にできるよう工夫するべきものではないか。

 Rollkurがヤリ玉に挙げられるもっぱらの理由は、実のところ、「誰でも見てわかるもの」だからだろう。ちょっと馬術をかじった人間なら、YouTubeの動画を漁って「このライダーはRollkurを使っている」と非難するのは容易である。馬が苦しんでいるとか、可哀そうとかは、見る人の主観であるから、どうにでもなる。―まさか馬にインタビューすることはできないし、といってそれを正確に知るため厩舎に就職するということもできまい。が、実際のところ、どれくらいの時間Rollkurを続ければ馬に負担になるのか、などの考察はほとんどされておらず、ただやみくもに非難されている、というのが実情のようだ。また、馬の鼻先がその胸からいくら離れているから「これはRollkurではない」とか、何か試技を審査するかのような態度で論じているものも見たことがあるけれど、馬の苦しさ(感じてるとすれば)の点から見れば、それほどわずかな姿勢の差が、どれほどの助けになるものか。程度の差こそあれ、依然として馬に苦痛を強いている、という点ではさして変わらないのではあるまいか。―まして、そのわずかな差で、「Rollkurをしないからこのライダーは偉い」とか「Rollkurをしているからこのライダーはダメだ」とか決めつけるというのは、片腹痛いような気がする。たとえRollkurを全然しなくても、ただのピアッフェやピルエットなどでも、多かれ少なかれ馬は苦痛や負担を、少なくとも煩わしさを、感じていることだろう。そういう場合のライダーの責任論は、どうすればよいのか。

 ほんとに馬を苦しませたくないと思うなら、すっかり馬術というものをなくすよりほかないと思う。結局、馬術というものは馬のためというより人間の楽しみのためなのだから。それでも馬術を続けたいのなら、馬を苦しめることは当然の前提として、できるだけそれを少なくすること、できるだけ人間の自分より馬のほうを優先すること、馬に関するあらゆる知識をできるだけ身につけるよう努めること、等を当の人間が肝に銘じておかなくてはなるまい。

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2019年3月28日 (木)

WFFSの起源馬発見

 WFFSの遺伝子をウォームブラッドの血脈にもたらした馬が特定されました。

 

 それはサラブレッドのBay Ronald号。彼の産駒のDark Ronald,Son in Lawなどを通じて、ハノーヴァー種やオルデンブルグ種のなかにWFFS遺伝子が拡散されたとある。

 これにより、以前から怪しいとされてきたいくつかの血統が、しかるべき裏付けを得た。

・Furioso・・・遠祖にBay Ronald

・Cor de la Bryere・・・Furiosoの曾孫、また父系もBay Ronald⇒Cor de la Bryereは直子Calypsoとともに、現ショージャンパーの血統の中心・根幹をなしている

・Ladykiller・・・父系・母系にBay Ronald⇒直子Landgraf,孫Lancerは、やはり現ショージャンパーの一大有力血統

・Lauries Crusador・・・遠祖Tudor Melodyは父系・母系ともにBay Ronald。Tudor Melodyの子孫の温血種にやはりWFFSのキャリアが出ているから、Tudor Melody自身もおそらくキャリア。

・Pik As・・・父系にBay Ronald。曾孫Pik Bubeの娘は大種牡馬Don Schufro(すでに引退しているが、先日キャリア判明)を産んでいる

 上記の血統は、お互いに交配されている場合も非常に多く、また同一血統内で近親交配されている例も少なからずある。なお、これらはハノーヴァーやオルデンブルグに抜きん出て多く配合されている血統で、オランダ温血種ではさほどではない(オランダ温血種のWFFSは、ホルスタイン種のEl Corona由来のものが多い。El Coronaの遺伝子は直子のKoss(キャリア)を通じてヘルデルラント種に広がっているが、ヘルデルラントのスタリオンにはオランダ温血種のライセンスを持っているものも多いのだ)。

 FBのコメントに「サラブレッドの交配をずっとやってきたけど、WFFSの罹患出生なんて見たことがない」とサラブレッド起源説を疑う人がいたけれど、思うに、問題は上にも述べたように、ハノーヴァーやオルデンブルグの配合の極端さにあると思う。優秀なスタリオンが出ると、たとえばFrioso1,Frioso2などのように全兄弟が何頭も生産されて交配に用いられたり、馬Aの娘が同じAの孫と交配させられたり、5世代の間に同じスタリオンの名前が3回も見えたり、これらの血統はひどく煮詰まっている。これでは病因となる遺伝子は、遅かれ早かれ発現せざるを得まい(WFFSはキャリア同士の交配で25%の確率で発症、流産・死産を招く)。キャリア同士がぶつかりやすい環境になっているのが、サラブレッドとは違う点で(サラブレッドも、Bay Ronald当時―1900年前後―は似たような事情だったかもしれないが、その頃はWFFSの概念そのものがなかったろうから偶然の病で片付けられたろう)、事実、同じ温血種のオランダ温血種などと比べても、ハノーヴァーのWFFSのキャリアのパーセンテージはずっと高くなっているのである(2018.春の資料によれば、オランダ温血種の7%に対しハノーヴァーは実にほぼ3倍の20%!それぞれ104頭、76頭を対象として。なおサラブレッドは95頭中4%)。しかも、たまたまなのかあるいはれっきとした生物学的根拠があるものか、遺伝力が強烈な、きわめて優秀なスタリオンにかぎってキャリアだったのだから、これは嫌でも拡散されずにはいない。拡散⇒近親で配合⇒優秀なスタリオン(キャリア)⇒拡散の繰り返しで、特に上にも出したCalypuso系などはえらいことになっている。

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2019年3月23日 (土)

インドア・ブラバント、ガル&ヴォイスのキュア、音楽が?

 もうだいぶ日がたったけど、このあいだのガル&ヴォイスのキュアについて少し。というか、クリップマイホースで視聴した時、えっと思ったのが、途中でキュアの音楽が別曲とダブって聞こえたこと。それもかすかにとか、ほんの少しの時間とかではなく、もとのキュア曲がかき消されるくらいのヴォリュームで、相当長きにわたって。あれは何なんだろう、配信の際のミスだかエラーだかだろうか?日本の視聴だけ、ああなったのだろうか?
 と思ったら、FBのコメントで、同じことをオランダの人が言っていた・・・ということは、クリップの収録そのものがああなんだろう。とすると、ナマの会場でも、あの状態で流れたんだろうか?
 録画を見た限り、観客の表情には動揺の色は見えなかったようだけど、しかし思えば、100近いFBのコメントの中でも、それについて触れたのは一人しかいなかったのだ。ということは、キュアを視聴する人の大部分は、音楽にはほとんど無頓着ということになるのだろうか?カッコいい曲が台無しにされたということを、別に残念に思わないのだろうか・・・コメントのほとんどはガル&ヴォイスの演技を褒めそやしているのだけれど、あそこまでBGMが乱されると、ペアの演技そのものにもかかわってくると思うのに、それを非難した―ひょっとすると気づいた―人がいないというのは、まことに不思議に思われる。
 しかし、ガルのファンですらこうであると思うと、現今の一般的キュアが、BGMなぞなくてもいいくらい技術ずく、動きずくのものであるのも納得できる。キュアはダンスだとかしばしば動画などのキャッチコピーで言われているけれど、ドレッサージュの専門家の感想ならともかく、ふつうのシロウトにはあれがダンスだとはまったく思えない。時々BGMに同調して動いているらしい、くらいがせいぜいである。しかしそれも、キュアの音楽に対する審美性や同調性が最初から期待されていないのなら納得がいく。音楽とぜんぜん噛み合ってないダンスほど、見ていてイライラさせられるものはないが、なるほど、そもそもダンスじゃないとすれば、そのイライラさせられるキュアがガルのキュアより高く評価されるのに不思議はない。キュアはダンスとかいうのは、単に演技のうしろでやや大きい音楽が流れるというのを誤解もしくは曲解しての文句で、あえていえば客引きの謳い文句だろう。というのは、キュアで実際にやっていることは、グランプリを我流にアレンジしたくらいのもので、音楽が果たす役割は別に評価されもしないし、上に述べたように、そもそも関心さえほとんど持たれないのだから。―これがほんとのダンスなら、音楽はどうでもよいどころの騒ぎではない(さらに異様に思われるのは、キュアの採点に特にもうけられている”芸術点”というやつ。これが、ダンスでも何でもない演技に対し、ダンスを意識したガルの演技よりはるかにたくさんの点数を審査員からどっと与えられるのだ。どう見ても、審査員が特定のライダーを恣意的に勝たせるためにもうけられた便法だとしか思えない)。
 ガルのファンがそのキュアを褒めそやすのも、どうやら、それがダンスだからじゃなく、ガルだからということらしい。とすると、この点、デュジャルダンやワースの「ご贔屓」と同じのようである。うーん、私としては、少々興醒めな感じ・・・

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2019年3月17日 (日)

バレエ・じゃじゃ馬ならし2

 こちらは、『じゃじゃ馬ならし』主役のクリサノワのダイジェスト版。こちらはすばらしい高画質、これで見ると、カプツォーワはやっぱり年を感じささせぬみずみずしさ・キュートさいっぱいに目に映る、満足満足^^

 まず(森の道中→ベッドは長いのでざっと見)見通しての感想―1.クリサノワ大変だあ、これ、踊り通すのにものすごく体力がいりそう…2.お父さん(何とか娘をおとなしくさせて波風立たないようつとめるけれど、毎度さんざんな目に合わされる)ご苦労お察しします…

 見た感じ、カタリナ(クリサノワ)は一幕のペトルーシオ(カタリナの求婚者)とのキスの時点で、もう半分がたペトルーシオに参ってますな。「私に釣り合う男などいない」と豪語してわがまま一杯に振る舞っていたというカタリナだけど、そこはやはり世間知らずのお嬢さまで、女らしい妹とは反対の豪気な性格だけに、妹よりいっそう男に対して免疫がなかったもよう。キスの場面ではカタリナ以外の時間が止まってしまう演出で(ペトルーシオ役のラントラートフ、「だるまさんが転んだ」よろしく固まってる、大変そう)、「何?これは何なの?これがキス?この感覚はいったい何?私、どうなっちゃったの?」みたいな、何かの少女漫画から借りてきたような芝居が笑えます。で、その後も相変わらずペトルーシオとの大立ち回りは続くのだけど、何と言うか、あれはなかば「認めたくない自分」との戦いだと思います…聞くところによると、馴らされたのはむしろペトルーシオ、という意見もあったから、ペトルーシオの演技にも(カタリナ中心のダイジェストじゃわからないけど)最初の持参金目当てからほんとにカタリナへの愛情へというような、心境の変化をあらわす場面があったのかも。

 演技というのは、もちろん上手に巧みにやってくれればそれに越したことはないけれど、たとえイマイチでも「演技するのが楽しいな」感が出ていれば8割がた満足な気がする。ロパートキナみたいに演技にあまり表情を出さないように見える人でも、踊りに渾身を打ち込むタイプは、カルメンの踊りならカルメンに、オディールの踊りならオディールに、結局成りきってしまうから、それはそれでOK、というか大満足。いただけないのは、能面よろしく表情が固まっちゃってるのや、喜怒哀楽の表情がワンパターンなの。もっとも、演技というのはある程度まで修練の積み重ねでできるようになると思うし、さっき言った通り踊りの力でもカヴァーできる(だいたい、踊りはそのときの役の感情を表すべく振り付けられてるはず)と思う。だから、年齢や経験につれて演技がよくなっていくというのは本当だろう―もともと演技するのがキライという人は別として。上手な人がノリノリでやるのを見るほど楽しいことはないけれど、ノリノリでやっているうちにほんとに役になりきるというのもアリ。その点、この時の『じゃじゃ馬』はとてもうまくいった例なんじゃないかな…

 なお、「演技」そのものに関して。思うに、「演技」というのはもっとも原始的な意味において相手を欺くこと、そして自分を守ること、だと思う。「お芝居」「一芝居打つ」というようなことばはそれを如実に表しているし、小さな子供はほとんど例外なく、芸能人や両親といった人間はもちろん、犬や猫のマネまでやりたがるものである。心理的に不安定な子供や、敵に囲まれているスパイなど、「演技」が実にうまいものだ。だから、立派な芸人や役者に苦労人が多いのも珍しくないし、芸を磨くためにすすんで心身を苦しみにさらす人さえいたというのも不思議ではない。こうして見ると、基本的には誰でも一定の「演技」の力が、いわば本能として、備わっているに違いないと思う。それでも「演技」がうまい人と下手な人とに別れるというのは、天成の才能にもよるのだろうけど、生育環境や動機の有無が大きくものを言うのではないか。不満があっても表に出せない日々が長かった苦労人は、いやでも演技の力が身に染みついてしまっているだろうし、反対に、恵まれた満足の多い人生を送ってきた人は、演技のしかたもわからなければ、演技の必要がなぜあるのかさえよくわからないかもしれない。そういう人は、演技をウソの一種のように感じたり、子供っぽいことのように思って、たとえ必要に迫られたとしても、それを熱心に学ぶ気になれないかもしれない。
 バレエなどいうものは、よく上品な芸術の極みみたいに言われるものだけど、実のところ、その原点は「芝居」「演技」だったろう。今でも基本的には、やっていることはパントマイム劇と大差ないと思う。ストーリーが観客にあらかじめわかっているので、そのぶん踊りに重点が置かれているだけだ。それにしても、世間には「踊り」より「演技」に興味を寄せる人のほうがずっと多いのは、先に言った本能としての「演技力」が人すべてに備わっている以上、当然のことだろう。演技が必要な人生を経験してきた人のほうが、必要としなかった人よりはるかに多い、というのも言うまでもない。バレエだから当然上品にしなければいけない、演技は二の次でいい、などという考えがもしあったとしたら、それはバレエから活力を奪い、大衆の目に見えていた魅力を奪い、バレエをただひと握りのマニアだけの愛玩物にするものだ、と言わねばなるまいと思う(日本の相撲だって、相撲協会が「品格」とか唱え出してから一般の人気がガタ落ちになった。がんらい相撲は”格闘技”で、ファンはその荒々しさや鍛えた肉体のぶつかり合いに大きな魅力を感じていたのだから、それが二の次でよいとされれば、興味も半減してしまうのは当然だろう)。

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2019年3月15日 (金)

犬の断尾について・その2

 犬の断尾は、少なくとも現代ではほとんどファッション目的で、それほど意味はない…と考えていたのだけれど、意味がある場合もないではないかも、と思いだした。

 そのきっかけは、断尾が禁止されているイギリスの、ワーキング・コッカースパニエル(イングリッシュ・コッカーの1タイプ)の飼い主の記事をネットで見たこと。それは、断尾の是非を問う記事に寄せたコメントのひとつだけれど、それによると、そのコメント主は断尾しない、長い自然なシッポのワーキング・コッカーをペットとして飼っていた。ところがそのコッカー、飼い主のことが好きで仕方ないものか、飼い主が帰宅するたびに狂喜してシッポを振りまくる。シッポはすごい勢いで床を叩き、壁を叩き、とうとうシッポの先端が傷ついて出血し、それでもシッポを降りやめないから、壁から床から飼い主の衣服から、そこらじゅうに血が飛び散って「殺人現場みたい」になったというのだ。

 最初これを読んだ時、少し話が大げさじゃないかと思ったのだけれど、いろいろな情報を集めてみると、これは少しも大げさじゃないらしい。まず、シッポからの出血というのは、傷が小さくても量は結構なものなのだとか(犬はあまり痛がらないみたいだけど)。それから、シッポを振りまくってそこらじゅうにぶつけ、とうとう出血するにいたる、というのはいろいろな犬にあることらしく、ボクサー、ダルメシアン、コッカースパニエル、スプリンガースパニエル、ラブラドール、とちょっとネットで探しただけでもこれほど見つけることができる(スパニエル系には―セッターも含め―かなり多いらしい。ボクサーにも非常によくあることで、だからイギリスのボクサー愛好家には断尾を支持する人もいるくらい)。

 また厄介なのが、シッポの治療が大変難しいこと。包帯やテーピングをしてもシッポを激しく振ればたちまち緩んでしまうし、飼い主が目を離せば口でも取ってしまう。第一、嬉しいことがあれば相変わらずシッポを振りまくってあちこちぶつけまくるのだから、傷がふさがるヒマがない(中には、1年たっても出血してる、という人さえいた)。で、やむなくシッポの切断に踏み切る飼い主も多いのだけど、子犬の時と違って、成犬になってからの断尾手術はかなり犬の体に負担がかかるらしいのだ。―回復に数カ月かかる場合もある由。

 こういうあんばいだから、断尾という習慣には(犬種や犬の個性にも大いによることだけど)思いのほか身近な、現実的な、やむにやまれぬ理由が潜んでいたのかもしれない、と思われ始めたわけ。あるいは、もともとこういう理由があったのに、長い期間にそれが忘れられて断尾という形が目に障る時代になり、それを禁止するため今の時代にマッチする理由(残酷とか外見重視とか)を挙げ、禁止したのだが、すると昔の忘れられていた不都合がよみがえって来て、再びそれに悩まされることになった、ということかもしれない。

 また、自分のシッポを追いかけて遊ぶ犬も多いようで、見ているぶんには可愛いけれど、これもエスカレートすると自分のシッポに噛み付いて傷つけることが往々にしてある由。また、遊びではなくストレスが高じて自分のシッポを噛む犬もおり、いずれにしろ、長いシッポの存在は、犬にとっても飼い主にとっても、なかなか面倒のもととなる場合がないでもない模様。もちろん、根本的には服従のシツケの徹底とかストレスの軽減とかが問題解決の手段としては要求されるだろうけど、対症療法的に、傷つけられるシッポをなくす、というのも、たしかに一案には違いない。まあ次善か三善の策ではあろうけど、余儀ない緊急避難のようなものである。虐待とか、単なる目の保養とかとは、これはやっぱり別物だろう。

 こうなると、一見いいことずくめに見える「動物愛護」も、そう一筋縄ではいかないことがよくわかる。というか、動物だけでなく、動物と人間との関わりを考慮して、その上で愛護しなくてはいけないのだから、もとより両者のバランス、妥協を探っていかなければならないものであるのは確かだ。一方が正しく、一方が悪い、とかそんな単純なものではなかったらしい。

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インドア・ブラバントCDI3

 今日は日本時間20:00から、オランダのインドア・ブラバントCDI3(GP)があります。ドタキャンさえなければ筆頭にガル&ヴォイスが登場、れっきとした競技会にはガルはほとんど半年ぶり、ヴォイスに至っては1年ぶり、いや、お久しぶり。―実は、昨日すでにCDIWがあったんだけど、スタートリストがホームに全然アップされなかったので、おやおやと思ってる間に済んでしまった。まあ、ガルが出てないから積極的に見る気もなかったのだけど…なお、ハンスピーター&ドリームボーイは5位、これがワールドカップ・デビューになるシルホート&エクスプレッションは14位、後者はカクカクした動きが私はタイプじゃないが、もっとデキるはずのコンビだと思うので、何かミスがあったんだろうな。ミスといえば、ドイツじゃしょっちゅうワース組の次点になってるシュナイダー&サミーデイヴィスjrが9位、審査員連のフェイヴァレットのスウェーデンのキッテル組が8位。うーん、誰の目にも明らかなミスがあったのだろうか?まあ、1〜4位をドイツとデンマークが占めたから、これは今の既定路線なのだけど。

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2019年3月12日 (火)

バレエ・じゃじゃ馬ならし

 毎度おなじみ、ニーナ・カプツォーワの『じゃじゃ馬ならし』(ダイジェスト版)。2019年、だから今年の1月の23日にあったボリショイ劇場での画像みたい。別に主役のクリサノワのダイジェスト版も同じ日づけであったから、あちらでは全幕通してのテレビ中継でもあったのかしらん、羨ましい…

 彼女ももう40歳か…という頭があるせいか、以前ほどのみずみずしさがない気がするけれど(画質のせいかも)、しかし十分満足。

 じゃじゃ馬ならしは、その名の通り、シェイクスピアが原作だけど、このバレエじゃ何ともかともユニークな役作り、扮装がなされている。青いミニスカのカプツォーワは、美人でモテモテのビアンカ役、その姉でじゃじゃ馬のカタリナはまったくハマり役、演技力はともかくもとても元気に楽しそうに演技をしてくれるクリサノワ。オフチャレンコはビアンカの三人の求婚者(賑やかでヘンなのと、ロマン過ぎてヘンなのと、まあ変だが許容範囲のまじめそうなの)のうちの一人。オフチャレンコ、アニュータの学生役もそうだったけど、貧乏そうな、まじめそうな役が妙に似合う…

 ビアンカは、家政婦(ジャージーのズボンに肩を半分出したセクシーな衣装の人^^;)の連れて来た賑やかヘンと、母親(←じゃなく未亡人の由。日本でいえば縁結び好きなおばさんなのか?仮面舞踏会みたいなマスクをつけたドレスの人)の連れて来たロマンヘンなのを拒絶して(当たり前だ^^;)まじめそうな最後の求婚者と結婚する。後半のシーンは、その結婚式でのパドドゥ。

 カプツォーワ、年は取ったかもしれないが、表現力はさらに磨かれてますな…同じシーンをスミルノワ&チュージンのでも見たのだけど、このスミ&チューのペアはものすごくダンスも達者で表情や演技も生き生きとしていながら、何かこう、プロフェッショナルな大道芸を思い起こさせられる…すごくうまい人が、自分はすごくうまいとわかっていて、自信満々にさあ見て見て、と離れ業を連発しているような感じ。それの何がいけないのかはわからないけれど、不満だというのは、おそらく結婚式らしいしっとり感に欠けているからだろう。スミ&チューのパドドゥを見ていて、おや、こんなコミカルな振り付けがあったっけと思ってカプツォーワ&オフチャレンコのを見直すと、この2人はそこを「おもしろい」より「かわいらしい」くらいに落として、いたって控えめにやっていた。だいたいこのじゃじゃ馬は喜劇だし、バレエはさらにおもしろおかしい演出満載なのだけど、この結婚式の、さらでも常のバレエであまり見ないような奇抜な振りが多いシーンで滑稽味を強調されると、いっそう舞台が見世物じみて見えてしまう。一場面だけを演じるガラとかではそれでよいだろうけど、喜劇とはいえ山あり谷ありのストーリーを通ってとうとう大団円の直前、というところで、やっぱりここも「おもしろい」というのでは、どうも一本調子で、盛り上がれなくないか。ようやく結婚式というロマンティックな場面で、扮装もそれらしく、音楽も荘重になったのだから、ぜひいくばくかの叙情味を味わわせてほしいところ…あざとい演出は、もうそれまでに堪能してお腹いっぱいなのだから。

 と、感覚的な不満を説明すれば、こんなに長く言葉を費やさねばならないのだけれど、これが技術的な不満だったら、「ジャンプが低かった」とか「リフトで一度ぐらついた」とか、ひと言ふた言で済まされる。だから、何であれ、減点方式の審査員的見方のほうが、新聞やネットでもよりたくさん採用されるわけだな。

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