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2019年1月 3日 (木)

能面のバレリーナ

 バレエはダンスと演劇の混ざったようなものだと思うけれど、そのどちらをより重視もしくは愛好するかによって、ずいぶんダンサーの好みが別れるところだと思う。というのが、今日、つい先日の大みそかにボリショイであった「くるみ割り人形」の動画を探していたら、大みそかではなくその前の日、―ハッキリいつかはちょっとわからないけど―のものが出てきて、そのバレリーナがまるで能面みたいな表情で金平糖を踊っているのにギョッとさせられたから。
 キャスト表をこねくり回してみるに、オブラスツォーワ?シュライナー?あたりかな(シネマのフィルム撮り日だったらしいので、シュライナーみたい)…能面というか、薄笑いが凍りついたような表情をいっかな変えないで踊り続けるもので、見ていると何だか呪いでもかけられそう。たしかに手先はよく伸びてしなやかで、踊り自体はうまそうだったけど。
 そう言えば、「アニュータ」をヌレエフ記念フェスティバルで演じた(モデスト役がゲストのヤーニン)動画を見たことがあるけれど、踊りはともあれ、やっぱりバレリーナの表情が微笑が固まったみたいで、つねに口が半開きで、何と言うか、マネキンみたいだった…それに、比較して相済まないが、手ぶりや身ごなしも、カプツォーワの時はコケットリーあふるるものが、そのダンサーが同じ手ぶりをやると、まるで目の前のハエを追っているようで、まったく味も素っ気もないものだった…というより、カプツォーワのを見るまで、その場面がコケティッシュなものだとは全然気付きさえしなかった^^;(関係ないが、それにひきかえヤーニンは見事だった。歩き回るだけだけど、ほんとにモデストが歩き回っているように演技が細かいし、ここという場面ではちゃんと音楽にノッて動いていた。…ああ、もし『ヤーニン全集』というDVDがあったら飛びついて買うのになあ。)(このバレリーナの名誉のために言っておくと、彼女は当時アニュータ初演で、それでも見る人が見て大変立派に勤めていたとの評だから、やはりバレエのどこを見るかで感想がずいぶん人によって変わってくるものなのだ。)
 思うに、バレエを見に来る人の大半は、そのバレエのストーリーをあらかじめ知っているだろう。いわば『水戸黄門』を見るようなもので、次はどんな場面になるかをちゃんとわかって見ている。そのような観客に対して、今さらストーリーをわかりやすくするために表情や身ごなしで演技して説明する必要はないと、そういう見方もできる。そんなことに費やす労力があれば、それをダンスそのものに注ぎ込むべきだ、という人もいるに違いない。その一方で、物語の筋がわかっているからこそ、それを演じる役者の表現力を楽しむ、という見方もある。黄門さまは今の○○より前の××がよかった、みたいな感じで、演技だけでなく、その役にふさわしい佇まいや身ごなしを求めて、それを眺めることで、いわば物語の世界に入り込むような錯覚を味わう一派だってたしかにある。
 手足がぴったり理想的に踊りの型にはまってさえいれば、多少無表情でも我慢するという人もいるだろうし、最高のテクニックで踊られても顔つきが蝋人形みたいなのは見たいと思わないという人もいるだろう(両者が兼備されていればそれが理想なのは当然だが。また、表情・技術の有無に関係なく、美形なら見ていられるという口もあったりなかったり)。
 能面でもダンスが完璧なのを取るか、ダンスが演技や表情に溶け込んでいるのに味わいを求めるか、バレエ・ファンにおいては、それは好き好きというものだろう。前者は限られた分野を細かく査定する審査員への道をたどることになろうし、後者はひしめく踊り手たちのなかからそれとは一線を画する「千両役者」に熱狂することになるのだろう。一般に、世の流れとしては、ふつう前者のほうがより高級とされ、後者は俗物ぽく見なされるのが常なのだけど、そこにはたいてい論じる側の「見栄」が、―当人は無意識にしろ―大いに関係している。専門家はシロウトより偉い、という考え。うーん、が、正直こういうことに、知識量が果たしてどれくらい役に立つのだろう。たとえば料理のようなもので、大学で料理学を研究している教授のほうが、「餃子の王将」のバイトよりうまい料理を作れるとは限らないのと同じようなものではないのかしらん。

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